栗原類さんについての記事を読んだ。
以前から栗原さんは発達障害をもっていることやそれに関する本の出していることを知っていた。
本は読んだことはないので、機会があったら読んでみたいと思う。
その本にも、発達障害を抱えながら、芸能界で活躍するまでになった理由が書かれているのだろう。
さて、ニュース記事に戻り、気になったことについてつらつら書きたいと思う。
断っておくが、完全なる個人の考えだ。
安心できる家庭、認めてくれる存在
「誰も評価してくれないのなら、せめて親だけでも褒めてやりたいと、
いつの間にか子どもの良い所を見つける努力をするようになっていましたね」
記事で引用されていた、母親の言葉だ。
大切だと感じたことは、「せめて親だけでも」というところだ。
発達障害の子は集団の中で過ごしていくということにいろいろな困難さをもっている。
なので、「他の人ができているのに、どうしてできないの」といった周囲から浮いた存在になりやすい。
本人としては全力でやっているし、失敗しようなんてことは思っていないだろう。
さらに、本人としても自分だけできない、怒らてしまうなど自己肯定感が下がってしまうことが多い。
その結果、二次障害的に心が満たされない部分を友達への暴力や暴言、自傷といったことで表現してしまいやすい。
なぜなら、暴力といったことは周りから注目を集めやすいからだ。
栗原さんが小学生の時のことなので、その時よりは発達障害に対する社会的な理解は進んできているように思う。
しかし、海外の学校の方が日本より個に応じた理解ということが進んでいる印象があったが、
アメリカの小学校でも発達障害の子への理解は難しいのだと感じた。
人種のサラダボウルとも呼ばれるアメリカ。
その国の学校でも、アジア人、転入生、発達障害といったいくつものレンズを通して理解され、
集団心理で少数派として集団から弾かれてしまう。
現状、日本の学校に関しても、以前よりも発達障害に対する理解は進んできている一方で、
自治体や各学校によってばらばらだというのが、自分が肌で感じている印象だ。
幼稚園、学校といった小さな社会の中で、
なかなか認めてもらえない子たちの存在承認をしてもらえる最後の砦は、
やはり家庭、親の存在だと思う。
学校などの場で認められなくても、親が子を認めてあげることができればその子は助かる。
安心して話ができたり、関わり認めてもらえたりするだけでぜんぜん違う。
記事の言葉からも、栗原さんの母親はその点をよくわかっていたのだと思う。
しかし、現実、家庭環境は様々で、親だけの問題ではないのかもしれないが、
家庭が安心できる場になっていないことも多いように思う。
過去の自分と比べる
「人と比べる子育てだけはするまいと思ってきたので、
『A君はできるのに、どうしてあなたはできないの』といった言い方は一切しませんでした」
この引用も、記事にあった栗原さんの母親の言葉だ。
会社での評価、学校の通知表などもそうであるが、以前の自分より今の自分がどうなっているのかが大切だ。
自分も子育てする中で、同年代の子の成長が気になることが多々ある。
「あの子はもう歩けるようになっているのにうちの子はまだなのかな」など。気になりだしたらきりがない。
確かに目安としての発達段階があり、クリアしていくことが必要なものもある。
でも、性格も違うし、感覚器官も違うし、運動器官も違うし、違うことの方が多いのだから、
何かができるまでの期間や方法なども違う。
目の前の子を信じて、「昨日より上手になったね。」などと励ましてあげることの方がよい。
そういった積み重ねが大切なのだと思う。
発達障害をもつ子、そうでない子、誰もが「あの子はできるのに」といった言葉は、
思った以上にきつい言葉としてその子に刺さる。
とりわけ、発達の特性をもつ子はやりたくてもできないことが多い。
それは病気と違い、一生付き合っていかなければいけないものだ。
あることはできなくても、他にすごい力をきっともっている。
その力を伸ばし強みにしていていくことがよい。
もしくは、どうしたらできるのか寄り添い、手立てを考えた方がまだよい。